9-BC 「ソクラテス以前の哲学者-2」




第9回ベルクソン・カフェのご案内



日時: 2024年3月6日(水)18:00~20:30

テーマ: J・F・マッテイの『古代思想』を読む(2)



講師: 矢倉英隆(サイファイ研究所 ISHE)

会場: 恵比寿カルフール B会議室



東京都渋谷区恵比寿4丁目4―6―1 
恵比寿MFビル地下1F


会費: 一般 1,500円、学生 500円
(コーヒーか紅茶が付きます)



カフェの内容

ベルクソンカフェでは、フランス語のテクストを読み、哲学することを目指しています。今回は前回に引き続き、ジャン・フランソワ・マッテイ(Jean-François Mattéi, 1941-2014)による『古代思想』(La pensée antique,  PUF, 2015)を読む予定です。具体的には、第1章「ソクラテス以前の哲学者」(Les présocratiques)にあるエンペドクレス(c. 490-c. 430 BC)とヘラクレイトス(c. 540-c. 480 BC)がテーマとなります。人類の精神が目覚めた時代に立ち返りながら、現代の我々を取り巻く根源的な問題へと思索が向かうことができれば素晴らしいと思います。

参加予定者には予めテクストをお送りいたします。議論は日本語で行いますのでフランス語の知識は参加の必須条件ではありません。このテーマに興味をお持ちの方の参加をお待ちしております。


申込み先: 矢倉英隆(she.yakura@gmail.com) 


会のまとめ





今回は、サイファイ研究所ISHEが11年目に入ったことと、新しい方が参加されていたこともあり、最初に、ISHEの目指しているところをサイトに掲げてある以下の言葉を参照しながら、自らへの戒めも込めてお話した。
「知識で終わる世界」 から 「知識から始まる世界」 へ
「科学、哲学、歴史」 から 「人間存在の理解」 へと飛翔する
それは生きる目的である人間になるため・・・

 

From a world that ends with knowledge to a world that begins with knowledge

From science, philosophy, and history to the understanding of human existence
To become human because that is the purpose of our life...

簡単に説明すると、以下のようになるだろうか。長く現代社会を眺める中で、事実(時に怪しげなものも含めて)が次から次へと並べられ、そして忘れられていく状況があり、そこでは思考というものが行われていないことに気づくことになった。その状況はわたし自身にも満足をもたらすことはなく、そこら一面に散らばっている事実の間に繋がりを探し、自分にとって意味のある新たな思想の塊を求める作業が必要になると考えた。それが最初の一行に表れている。

我々を取り巻く世界をできるだけ正確に、明晰に理解・認識するためには、科学が必須になる。しかし、そこに留まっているとその認識に深さが加わらないということにも気づいていた。それが二行目の心で、科学に加え、哲学や歴史などの他の知も動員して、この世界の理解を深めると同時に、その世界の中にいる人間についても思索をすることが欠かせない。

そして、最後の一行は数年前に加えたものだが、その背景には以下のようなことがあった。我々人間はこの世に生を受けてすぐに成熟した人間になるわけではない。また、一見成熟したように見えて、その内実を熟視すると未熟極まりないことにも気づく。そこから見えてくるのは、人間というのは最後まで成熟しない生き物だということであった。これまで古代ギリシアの哲学者に始まる人類の思索の跡を検証する中で、人間のあるべき一つの姿が見えてきた。それは上述のように、我々を取り巻く世界と同時に我々の内面世界を広く深く認識し、その上で行動ができる人間である。そのような人間を仮に「真の人間」と呼び、その姿を頭に描きながらそれぞれの人生を歩むのが、この生の目的ではないかという認識に至ったのである。

さらに、この世界と我々自身についての認識を深める、あるいは真の人間への歩みをすることにより、静かな充実感・充足感――それは幸福感と言ってもよいのではないかと考えるようになっている――に満たされていることにも気づくようになった。つまり、最初の二段階における試みは我々に幸福をもたらしてくれるので、それをできるだけ多くの方と共有することが欠かせないと考えるようになったのである。それをサイファイ研ISHEのミッションとして改めて明確に認識するために、最後の一行を加えたのであった。

ということで、今後のご理解、ご協力をお願いして、カフェを始めた。


今回のテーマは、お二人のソクラテス以前の哲学者、エンペドクレス(490-430 BC)とヘラクレイトス540-480 BC)の哲学であった。以下に要点を書き出しておきたい。

エンペドクレスは、『自然について』と『カタルモイ』(浄化)という2篇の詩を書いている。そこで展開されている哲学を要約すると、この世界は4つの要素と2つの対立する原理により成立しているというテーゼになるだろうか。彼が言う4つの要素とは水、空気、土、火であり、これらが2つの相反する原理、すなわち「愛」と「憎しみ」によって支配されているという構図である。愛と憎しみという呼称はかなり詩的・象徴的であるが、前者は万物の結合の原理、後者は解離の原理であった。世界の始まりは完全な球体(スパイロス)の状態にあったが、そこに侵入してその秩序を乱すものとして憎しみがあった。エンペドクレスによれば、生命は生きた粒子の形で生まれ、それが様々な方法で偶然に集合し、性別が分かる生存可能な生物が形成されるまでになるという。

このように世界の成り立ちを4要素で説明しようとする考え方は、中国の宇宙論(火・水・木・金・土から成るとする五行思想)やインドの物理学にも見られるし、医学の分野でも、例えばピタゴラス派の医師アルクマイオン(5th century BC)の熱・冷・乾・湿から病気を見る立場ヒポクラテス(460-370 BC)4体液説にも反映されている。20世紀フランスの哲学者ガストン・バシュラール(1884-1962)は、4原理に肖る作品――『火の精神分析』『水と夢』『大地と意志の夢想』『空と夢』――を残している。


一方、一者の思想家と言われるヘラクレイトスは、哲学史上極めて重要な人物であり、ハイデガー(1889-1976)によっても高く評価されている。ヘラクレイトスも『自然について』という著作を書いているが、残されているのは150ほどの断片だけである。彼の思想は有名な「パンタ・レイ」に象徴されるように、すべての人間、万物は永遠の流れの中にあり、絶え間なく生成し続けているという「普遍的流動主義」として特徴づけられる。しかし、それだけでは彼の哲学を捉え切れないだろう。もう一つのテーゼを挙げるとすれば、「対立の中にある統一性」になるだろうか。対立するものの緊張の中に調和が生まれるという見方である。今回のテクストにはなかったが、対立こそが豊かな多様性を生み出すもので、戦争はすべての王とまで言っている。

今回、ヘラクレイトスが唱えるアルケーの火について、著者のマッテイさんが次のようなことを書いているのに目を開かされた。これまで、炎としての火がアルケーだという認識を持っていたからである。
ヘラクレイトスはこの言葉によって炎の火ではなく、あらゆる物理的なものの中にあり、それを他のあらゆるものへと変化させる原初的なエネルギーの概念を指している。彼は、現代物理学がアインシュタインとE=mc2によって示した、すべての粒子は質料エネルギーを持つことを予見していた。
ヘラクレイトスにとっての宇宙とは、原初のエネルギーである火が新しい要素へと変化し、それが順次原初エネルギーの痕跡を残す物体を形成していくことに他ならないのである。

ヘラクレイトスはロゴス(理性)の重要性を説いた哲学者でもある。ロゴスこそ万物の「存在理由」であり、万人に共有されたものであると言っている。それなのに、ロゴスを使うことなく、自らの特異な考えに引き籠る傾向がある。ロゴスを欠く即物的感覚にのみ耽溺する人間は、ヘラクレイトスによって野蛮人と呼ばれる。このロゴスとは、デカルト(1596-1650)が『方法序説』の冒頭で言った「良識」のことであるとマッテイさんは言っている。

わたしが気に入っているヘラクレイトスの紹介として、前回のFPSSで取り上げた以下の一文がある。
師につかず、弟子も取らず、孤独の中に生き、考え、瞑想し、書き、真に禁欲的な生活をし、自分自身を深く探求し、知るために努めた。

このように孤独の中で一人格闘することこそ、唯我論に陥る危険性を孕みながらも、真に独創的な何かを生み出すことに導くのではないだろうか。そんなことを考えながら彼の思想を眺めていた。





(まとめ: 2024年3月7日)



参加者からのコメント


◉ 昨日は楽しく過ごすことができました。以下、感想をお送りします。

ヘラクレイトスの火のメタファーが、最も印象に残っています。高校の倫理の授業で習った際は、単なる火と認識していました。しかし、今回のテキストでは、火=万物に内在する規則的・原理的なエネルギーと解釈しており、新鮮に感じました。このように今までの自分の理解が変わっていく過程も、学ぶ楽しみかなと感じました。

ところで、哲学者の柄谷行人は『哲学の起源』で、原因論の2分類を行っています。それによると、①物体それ自体が運動していると見なすか、②何か外から原因をもってくるか、に分類できるそうです。その意味で言うと①は、ヘラクレイトスの火はもちろんそうですし、光 (の粒子) も当てはまります。加えて、柄谷行人はジョルダーノ・ブルーノ、スピノザ、ダーウィンの進化論、ベルクソンの考え方もこれに当てはまると述べております。

一方、②は原因を外に求めるがゆえに無限遡及に陥り、どこかで絶対的な動者 (つまり自分は無原因で動くと同時に、その他すべての動因となるような存在) を想定せざるを得なくなります。その例としては、プラトンのデミウルゴスや、アリストテレスの不動の動者を挙げることができます。

こういった視点からも、ヘラクレイトスの火の概念の意義について考えてみたいです。


◉ 参加させていただき有難うございました。2時間半があっという間にたってしまいました。仏語のテキストを追いかけるのにやっとの状況でしたが、明瞭な翻訳と解釈ですっきりとした読後感です。
 
哲学を考えることと実践することとはどう違うのか。先生のこの会の目的にもなっていると思いますが、ギリシャの先人たちが考えたもしくは実践した哲学の痕跡を自分の思考のなかに取り入れることで、自分の哲学になにがしかの変化を感じることができるのではないかと思っています。
 
現代と違って巨大な実験装置などなく、測定、検証などの物理的、数学的な環境(知恵 思想)のないなかで、アインシュタインの得意とする「思考実験」的なアプローチでの説示が興味深いところです。科学者を動かす「知的な興味」に相当するものがギリシャの先人たちそれぞれでなにかあるはずですが、さて何だろうかなという疑問が常に残ります。まずは衣食住がキチンと足りて、彼らの自説を聞いてくれる「他人」に相当する弟子などがいて、さらにそれを記録に残してくれれば最高でしょうね。おそらく感覚的な思考分析では自分では納得できず、ある明晰な推論に行きついたときにその過程を「哲学」と呼んでもいいのではと私は思っています。中には「啓示」「感動」「ひらめき」「着想」など外部からの要因の助けを借りてるケース(たいていこれでしょう)が多いと思います。

さてヘラクレイトスほかギリシャ古代の哲学者のそれはなんだったのかに大変興味があります。こういう問題意識でもって先生のこの講座に参加しております。引きつづきよろしく参加させていただければと思います。


◉ 古代の哲学者たち、しかもソクラテス以前となると、その思想は断片的なものが残されているだけなのに、今日なおその「断片」を手に取って、息吹を吹き込むひとがいる(著者のマッティ氏、それを取り上げる矢倉先生、その話を聴きに来た私たち)・・・ことに驚きと喜びを感じます。古代ギリシアの自然哲学者たちを思考することにどのような価値と意味があるのか?という自分なりの「お題」を懐にいだきつつ参加しました。

今回、エンペドクレスとへラクレイトスでしたが、エンペドクレスの「愛 (結合)」と「憎しみ (解離)」の理論の着想は、どこから来ているのか興味深いです。また、ヘラクレイトスがアルケーと考えた「火」に関するマッティ氏の解釈が斬新で、参加者の皆さんのなかに静かなおどろきが広がっていたように感じました。私も「いいこと知っちゃった!」と得をした気分です。また「ロゴス」を用いない者を「野蛮人」と言い切ったヘラクレイトス、きっと彼の時代も「野蛮人」が跋扈していたのでしょうが、現代もひどいことになっていますよ・・・とヘラクレイトスに伝えたら、彼は何と言うかな?「対立のなかにある統一性」というテーゼも、本当に今日的なことですね。「対立や緊張」を流血や死・分裂で終わらせず、いかにして豊かな多様性を認め合う「統一」に結晶するのか?知恵を絞って、言葉を尽くしていく生き方に進路をとるしかない。結局、自然哲学者たちの言説から出発して、今日へと円環がつながる感覚がありました。

講義内容とは離れますが、矢倉先生が改めて会の趣旨をご説明くださり、また参加者がいる限り継続する旨をおっしゃってくださったのが嬉しかったです。参加人数が減少して、無くなってしまったらどうしよう、と不安に感じていたので。フランス語ができようができまいが、文系理系、老若男女に開かれた場所なので、この感想 (口コミ) を参考にしてどうぞお運びくださいませ。


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